幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の展開 (含・正誤表)

幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の正誤表

国語学者と言語学者 その四


本項では大野説批判を展開した言語学者やインド学者の異様にも写る批判内容に付き,一日本語ユーザーとしての私の印象を述べていきたい.これらの記述は本来は一続きのものであったが,批判ばかりを書き連ねてもウンザリされる方もおられようと,分断してコラムに入れた.


ちなみにウンザリをタミル語でūzali[意気消沈する(to be dispirited),嫌悪する(to loathe),大いにうんざりする・酷く嫌になる(to be greatly disgusted with)]と対応する.タミル語では「ウーザリ」だが,日本語では長音に替え,/n/が添加されたであろう.


実際の所,我々はこれら碩学(せきがく)の批判を精査することなく,専門家が批判しているのだから大野説は無効だ,と無批判に受け入れているのが実情である.つまり,これら専門家の批判は,超えなければならない大きな壁として立ちはだかっているのである.


しかし,私は言語学に付いて深い知識を持っているわけではないので,これまではこれら深淵な知識と見識とを持っておられる碩学の批判に対して,類書で何かをいうことは避けてきた.ところが,いつまで経ってもこの大野説は無効だという状況が新たな展開を見せる兆(きざ)しがない.


そこで,改めてこれら碩学が,何をもって大野説を無効判定したのか,その論攷を精査し
てみた.そこで感じたことは,すべての言語学者がそうであるということではないが,彼らの批判は学問的批判では決してなく,個人的利害に基づく批判ではないか,ということである.そういう感想を持った.


むろん,大野説は当初,系統論の立場で論じられたので,碩学らに誤解を招いた点もあろう.ところが,大野氏が接触言語説に切り替え,2000年に大野「形成」を上梓した後も,これら碩学は相変わらず比較言語学(系統論)の立場で大野説を糾弾し続けるのである.大野「形成」にはその研究がクレオール語説(本書でいう接触言語説)によるものであることが明示されているにもかかわらずである.


これは実に奇妙なことである.更には,「大野説は取り下げ,遠隔系統関係論の切り口で
やり直せ,そうすればもう文句はいわない」などという驚くべき主張をする学者もいる.
以下,前章とは異なった角度から,碩学らの論攷を引用し,その奇妙な内容を示したい.ただし,新・大野説を首肯されている方々は,この各コラムを飛ばしてお読み頂いても何ら支障はない.


言語学者,長田俊樹博士は同氏編「日本語『起源』論の歴史と展望.日本の起源はどのように論じられてきたか」(三省堂.2020)において,言語学者と国語学者との違いを「厳密な比較方法を確固として堅持している言語学者と,一般読者により近い立場の国語学者」(pp.327-328)と記述する.これは明らかに大野氏を指しての謂(い)いであろう.


崎山 理「日本語『形成』論」(三省堂.2017年)において,崎山博士は「『日本語=クレオール・タミル語説』を唱えた国語学者も,あたかも自説のように,『形成』という書名を立てている」(p65)と,ここでも「国語学者」を強調する.なお,この「あたかも自説のように」というのは,おそらく崎山氏が1990年に「日本語の形成」を出しているところ,あとから大野氏が同名の「日本語の形成」と銘打った書籍を出したことを暗に非難しているのであろう.


このような差別意識を,無意識であれ多かれ少なかれ日本の言語学者は持っている様子
である.大野 晋博士は国語学者(日本語学者)である.これが大野説排斥論者に大野説討
伐のエネルギーをある程度供給したかも知れない.


これでは真っ当な批判など望むべくもあるまい.現在においても大野説に強い反発を示す“言語authority”の意見がまかり通り,その影響もあってか,大方の日本語ユーザーは大野説に背を向けているのが実状である.


ところが言語学やインド学のauthorityのこうした大野説排斥が,本当に正しかったのかを改めて精査してみると,意外な事実が浮かび上がる.人の心理として自分の立場が脅(おびや)かされるような事態,例えば“言語学者ではなく国語学者による日本語タミル語由来説の登場”という事件に直面すると,「国語学者ごときが…」と考える学者がいるかのような印象を受ける.これは馬鹿げた妄想であろうか.


かつて,比較言語学者の村山七郎氏が「国語学の限界」(弘文.1975)という分かりやすい題名の書籍を出されたように,言語学者にとって国語学者(日本語学者)は一段下,格下,よそ者,邪魔者という水面下の認識があるように見受けられる.村山氏は「大野は方法論が間違っている」という.


以下,「日本語…タミル語起源説批判」三一書房.1982.pp.12-13)より引用する.
私たちにとって重要なのは,研究者がどのような方法で比較にのぞんでいるか,その方法を根本的に究明することである.方法が比較言語学の原則的な方法から外れていれば,どんなに沢山の比較例を出しても無意味である.


その研究者の方法を明らかにする一〇例をとって見て,その方法が類似語並列主義以上のものでないことを知るならば,他の三〇〇ないし四〇〇の例をひとつひとつ検討する必要はない,というのが比較言語学の立場であると私は考える(中略)大野氏のタミル・日本語の比較の場合も(中略)全部を検討する必要はないのである.そのかわり,私たちは幾つかの比較例をよく検討しようとしたのである.その検討の結果,とてもまじめな比較,まじめな研究とは受け取れない,という結論になったのである.


要は,印欧流の比較言語学の方法によって,双方の共通祖語を定立していないので不真面目,無意味だというわけである.ある意味それは正しいようにも思える.当時,大野氏は比較言語学の立場から論じておられるようなところがあった.そこで批判者は「大野説には方法に不備がある」という.つまり共通祖語を定立する方法論にしたがっていないというわけである.
 
しかし,語源解析の手法は本書で何度もいうように,印欧流の比較言語学の方法論だけではない.そのことは言語学者であれば誰であれ基礎知識であろう.前・大野説であっても,その音韻・語彙対応の有績性を専門家がその透徹した眼力により,読み取れなかったなどということがあるのだろうか.更には,接触言語説に立つ新・大野説により,その方法の不備など問題外となったのであるから,批判をするのならその新・大野説に対してでなければならないはずである.


ところが,その新・大野説に関しては,前・大野説と対峙したどの言語学者も,例外なく一(いっ)顧(こ)だにしないのである.しないというかできないのであろう.大野氏の方法論は,文中に”系統論”と書かれてあるとはいえ,比較言語学によるアプローチではないからである.ただし,広義の(一般的意味の)系統論であることに間違いはない.


ともあれ,同系統と見られるA語とB語,C語等々を比較言語学の方法論で照射すれば,再構形のX語が共通祖語として定立できる.言語学者はこの共通祖語を立てて分析する手法を採り,それがルールでござるよ,と言い募(つの)るのであるが, 再構形をたて,共通祖語を定立するというこの優れた手法は,接触言語である日本語には通用しないのである.否,どのような接触言語にもそれは通用しないのだ.それをある意味,端的に証明したのが近畿大学の英語科講師,藤原 明氏であった.