幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の展開 (含・正誤表)

幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の正誤表

日本語・ドラヴィダ共通祖語論の誤謬 その五


ドラヴィダ語と日本語との関係は既にR・コールドウェルが指摘しており(1856年),日本でも芝 蒸(すすむ)氏の研究がある(1970年).なお,芝氏はその後,やまと言葉をアルタイ諸語,ドラヴィダ語,南島諸語の混合言語とする立場を採るに至った(芝 烝「日本語の起源/系統と検証」,新風舎.2005年).


ところでなぜ芝氏がドラヴィダ語から決別したのか,それは同氏がドラヴィダ語と日本語
を祖語再構形型の比較言語学の方法論で解こうとして行き詰まったためである.そのことは同氏の「日本語の起源・・・その具体的全体像」(三一書房.2008年)に書かれている.
なお,ドラヴィダ語が,(略)全体的支配的に日本語に影響したか,については次の諸点で困難であろう.


①rの種類は数個あり非常に多いこと.
➁一語中2子音連続の多いこと.
③原則として1音節が学界の定説であること,他(p.33).


しかしながら,接触言語においてはドラヴィダ語にrの数が幾ら多くても,また語彙中に子音連続があっても,それらは何ら問題とはならない上に,学界の定説だからと言って引き下がっていては新たな分野は拓(ひら)けまい.日本語の淵源を50年にわたって蒙古語に求めた言語学者,江(ごう) 実(みのる)氏も蒙古語は日本語と無関係とし,晩年,ドラヴィダ語に注目して,大野氏にドラヴィダ語の研究を奨(すす)めたという.


再構形をたて,共通祖語を定立せよ,という比較言語学の主張に従い,その再構形定立を行ない,その結果を公表した藤原 明氏は「日本語はどこから来たか」(講談社.1981) において,「私は日本・ドラヴィダ比較言語学の創始者・提唱者として,この書を世に出したい」と高らかに宣言された(p.219).その強烈過ぎる意気込みは他の言語学者の顰蹙(ひんしゅく)を
かったほどである.もう40年以上前のことだが,当時,事情を知らなかった私は,むしろ
大いに期待したものである.


同氏の採用する手法は比較言語学の伝統的な方法論に沿ったものであった.しかし結局,同氏の著書は,かかる方法論を採ると,どのように対応から遠くなってしまうかを知ることができる一級の資料と言っても過言ではなかった.つまり,日本語を系統論,言い換えれば印欧流の比較言語学の手法でドラヴィダ諸語(タミル語もそこに含まれる)と比較すると,「非対応」という結論が導き出されるのである.


この比較言語学の伝統的な方法論に付いて,村山七郎氏は「日本語…タミル語起源説批判」(三一書房.1982) で以下のように書かれている.


ドラヴィダ諸語の研究の第一人者であるモスクワのM・S・アンドローノフは,言語年代学的研究の資料によって,ドラヴィダ祖語の分裂は紀元前三千年代と四千年代の境目に,つまり今から五千年前に始まった,とする.
これを正しいとしよう.仮に大野氏らが考えるように,日本語がドラヴィダ系であるとすれば,ドラヴィダ・日本共通祖語の崩壊の年代はそれより数千年古いであろう.日本祖語とドラヴィダ祖語に分かれたのは,少なくとも今から七~八千年前のことではなかろうか.この年代は琉球祖語と狭い意味の日本祖語との分離後の経過年代の何倍かになるであろう.大野氏の日本・タミル比較を検討するさいに,このことを忘れてはならない(p.146).


これはしかしながら,比較言語学絶対主義を信奉する立場からのもので,これでは学問の進歩は齎(もたら)しえず,全く誤った忠告と言わねばならない.また,水深測量を非難した学者とは思えぬ部分もあるが,ともあれこのような立場,即ち系統論でもって大野説と対抗すべく真っ向から日本語とドラヴィダ祖語(らしきもの)を比較したのが藤原 明氏である.藤
原氏はいう.


まして,タミル語がドラヴィダ諸語中,最古・最高の文学,もっとも豊富な言語資料を有し,文化の程度もきわめて高く,多くの人々によって話されているからと言って,それだけでタミル語こそが,日本語と系統的にもっとも近いと断定できないことは自(おの)づから明らかであろう.我々は,日本語の系統や起源を探索するにあたっては,ドラヴィダ諸語の中の一言語だけではなく,22以上も存在するドラヴィダ諸語全体に,目を配って研究をする必要がある.(中略)言語学・系統論においては,日本語をいきなり外国の一言語と結びつけるのは危険である.特にドラヴィダ諸語の場合,タミル語のほかに多くの姉妹語が存在するので,タミル語だけでなく,これらの言語とも比べてみる必要があり,さらに,これらの祖語形を復元して,その復元形と日本祖語形とを比較するのが,正当な比較言語学の手順である.(pp.35-72).


同氏はこのように大野説を暗に批判し,比較言語学の定石(じょうせき)にしたがって,日本・ドラヴィダ共通祖語というものを措定し,そこから日本語と22にも及ぶドラヴィダ諸語ができ上がったとする.では,同氏がどのような対応をさせているのか,具体例を挙げたい.
◆太占(ふとまに)(布斗麻邇)


「ふとまに」とは日国辞によれば「上代の占いの一種.ハハカの木に火をつけ,その火で鹿の肩の骨を焼き,骨のひび割れの形を見て吉凶を占うもの」とされる.
藤原氏はこの語につき,「ドラヴィダ祖語として*maņiを再構し「話す,罵る,叱る,誓い」の意とする(上掲p.143).これを上代日本語Futo-maņiの意とし,「太占」だとされる.


「フトマニ」は動物の骨(亀や鹿)を用いた占いのことだが,ここで同氏は「Futo=美称」と
する.しばしば意味不明な語を「美称」で済ます辞書や研究書を見かけるが,やはり意味を
付すべきであろう.だが,それは無理な注文というものである.タミル語以外に,その意味を的確に示す言語はないからである.


ところで,「話す,罵る,叱る,誓い」がなぜ日本語maņiと対応するかの説明がない.いや,説明は不要であろう.太占の意味はタミル語でわかるのである.なお,この「太」は当て字である.
タミル語にpuz-ai[割れ目(crevice)」という語がある.この記号/z/は/r/の巻き舌音で,接触言語である日本語ではその聞こえからput-oとも対応する(z/t交替).これにタミル語maṇu[まじない(incantation)]が後接し,「フトマニ」となる.


以上から「フトマニ」とは「割れ目まじない」ということになる.亀の甲羅や鹿の肩甲骨を焼いて,できた割れ目で占いを行なったからである.これは考古学的裏付けもある.
なお,「まじなふ」という場合の「マジ」はタミル語mantir-am[まじない(incantation),魔法(charm),呪文(spell)」のmanti-が日本語でmadi[蠱(まじ)」になり(r以下脱落),「なふ」は別項でも述べたが,タミル語nav-iḷ[する(to perform), 実行する(to practise),意図する(to intend)]が日本語内部において文法化したもので,日本語ではnaf-uとなる(v/f交替).こうして「マジ・ナフ」という語が日本語内部ででき上がる.


ただし,これは解釈の問題で,あるいはこの「フト」は鹿なら「頑丈な肩胛骨」を指し,亀なら
「堅い甲羅」を指している可能性もある.その場合はputt-i[頑丈(stoutness)]との対応であろう.それに「マニ」はタミル語man[鹿(deer), 牡鹿(hart)]でもあり,亀を意味するmaun-i[亀(tortoise)]でもあるので,更に混乱する.とはいえ,やはりここは考古学的裏付けを重視すべきであり,更には「頑丈な鹿・頑丈な亀」だけでは,それがなぜ占いと結び付くのか,解明し得ないであろう.


なおmant-iramと区切ったのは,mantが語幹かどうかを考慮に入れているわけではなく,mantiを分かりやすく浮き上がらせるために過ぎない.他の語彙も同様である.
以上が,新・大野説の応用,即ち接触言語による解釈の一端である.


参考までに,村山「日本語の語源」(p.76)では,「マニ」はデンプウォルフが復元した「淡水亀」を意味する南島祖語*banig(bは鼻音)が相当するという.そして*banigの鼻音代償形がmaniだとし,意味は「大きい亀」であろうとする.だがこの結論は考古学上,太占は亀だけに限らないことを無視するもので,そもそも,大きい亀=太占では意味を成さないであろう.こういう対応のさせ方は,あまりにも日本語を粗末に扱っているとしか私には思えないのである. 


なお,「亀ト(かめうら)」という語もある(古事類苑神祇部洋巻第2巻p.1267).マニウラともいうが,このマニはタミル語maun-i[亀(tortoise)]に由来するであろう.
以上,タミル語に絞ると,日本語の意味がよくわかる一例を示した.ともあれ,
他のドラヴィダ諸語と比較して相対的に,対応する語彙が際立って多く,また文法も似た部分があるのはタミル語だけなのである.


◆遠ざかる再構形


こうして極めて正しい”方法論”でもって,藤原氏は日本語とドラヴィダ祖語とを比較され
るのだが,日本語me(目)はドラヴィダ祖語*mattal,喉は「飲み所」の意として日本語nomi-do,この祖語はnunkV(Vは何らかの母音)といった具合に,音韻対応とはどんどん遠くなってしまうのである.日本語「目(me)」はタミル語viであり,vi/me交替で綺麗に対応する(「目」は甲類の音.viには鳥という意味もあり,つばめ,すずめの「め」とも対応する).なお,沖縄語ではmiを維持する.こういう状態で日本語祖語を作ってみても,何の意味もないことは明らかである.


このように,比較言語学が祖語を再構した方法論で日本語とドラヴィダ諸語の祖語(再構形)を対応させると,エントロピーが増大してしまうのである.その結果,藤原氏のこの比較言語学的手法による研究は,「日本語の暦月の名称の起源」(言語研究.1997)あたりで途絶えた様子である.
 
同氏の立論(りゅうろん)が未発に終わったのは, 哲学者の芝 蒸(すすむ)氏も同様なのだが, それは祖語復元の方法論,即ち比較言語学の手法でアプローチしたためである(なお,芝氏は日本語とタミル語の意味ある関係を日本で最初に見出した学者である).


だが藤原氏は言語学者ではないということでか,比較言語学者がこの論攷に深く触れた
のは,私の知る限りでは村山七郎氏だけのように思える.むろん,村山氏は「もう言語学には手を出すな」といった類いのことまで言って,この論攷をも激しく非難罵倒した.


しかし,何であれ言語比較は比較言語学の手続きでやるべし,と主張したのは村山氏らの言語学者であり,藤原氏はそれに従っただけである.ただ,祖語形を作るのは職人芸に等しく,はなからの比較言語学者でないと荷が重いであろう.


村山氏にとっては,タミル語に関連する語族と日本語との研究は何であれ御法度(ごはっと)のようであった.むろん,藤原論攷にもかなり雑な面があったので,致し方ない点もあるのだが,村山氏は藤原論攷も大野論攷も一緒くたにして排斥するのである.この強烈な排他意識はどこから来るのであろう.


やはり,言語比較は印欧流の比較言語学しかない,という
陥穽(かんせい)にはまり込んだまま抜け出せない痛ましい現状を反映しているのであろう.
大野氏は国語学者であったので,その点,日本語というものがどのようなものかを知悉(ちしつ)
されていたであろう.これは,タミル語が直接日本列島に接触したと考える以外にないのである.