幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の展開 (含・正誤表)

幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の正誤表

大野博士の反論② その十三

◆辞典 にはない 「意味」 の実際


「大野教授は厳密な意味の対応を問題にされているが,引用した辞典にはない
意味が用いられているケースが結構ある.そのいくつかをあげておく」とある.「ここにあげた例だけではなく,細かくみると,もっと多くなり,あくまでも筆者がざっと目をとおして気がついた例だけをあげた」ともある.


対応語が真実に対応といいうるものかどうかは最も核心にふれる問題である.だから疑わしいものは遠慮なく指摘せられるべきであり,対応語として提出した研究者は,どれだけの資料にもとづいて対応語と認めたのかを明らかにしなければならない.だから大野は14年にわたって「解釈と鑑賞」に毎月いくつかずつ一語一語の考証を掲載して来た.大野の研究を論評しようとするならば,その雑誌を調べて詳細を知り,自分の取り上げる単語について大野の研究を確認することが前以て果たされるべき作業ではなかろうか.


ところが,今回のシンポジウムの参加者は,前述したことだが,大野が集会に先立って各氏に郵送した『日本語以前』についてすら目を通さずに出席して発言された.のみならず対応語のインデクスだけを「ざっと目を通しただけをあげた」と他にもまだまだたくさんの疑わしいものがあると示唆する文章をお書きである.では長田俊樹氏の指摘による「DEDRにない訳語による6個」が,大野の恣意的な捏造あるいは変形などであるかどうかを点検してみることにする.


その結果をあらかじめ概括すると,長田俊樹氏はDEDRのタミル語の部分が,TLからの抜粋であることを御存じなかった.


その結果,大野が,「辞典にない意味」を使ったと発言をなさった.大野の用いた「DEDRにはない訳語」はたしかにDEDRにない.しかしそれらはDEDRの親本であるTLにはある.大野が「作り出した意味」はなかった.長田俊樹氏はムンダ語(引用者注…ムンダ語群はインド東部からバングラデシュにかけて分布する)が御専攻と伺っている.


他の言語についての研究を非難攻撃するには,いくらかのあらかじめの学習が必要なのであろう.(以下略)


なおここで,この大野氏の主張に対する長田氏の興味深い反論を引用したい.長田俊樹「<フォーラム>比較言語学・遠隔系統論・多角比較:大野教授の反論を読んで」からの抜粋である.(国際日本文化研究センター紀要17.1998. http://doi.org/10.15055/ 00000767).


(前略)更にあきれたのは「すでに述べたように(大野氏は)長田の異議ある語例の6例中5例は長田の見落としによるものであった」(引用者注・・・大野「日本語の起源・新版」.岩波書店.1994年.p.226)とまでのべていることである.DEDRにないという「客観的」指摘が「あたかも作為・捏造・逸脱であるような言い方」となり,最終的には長田の見落とし」となる.こんな反論はアンフェアーをとおりこして,犯罪的とすらおもえる.こうした論法をくりかえしていると,大野教授の名声に傷がつく.(中略)長田の「見落とし」として責任転嫁するのではなく,DEDRの編者(中略)に,大野教授がTLから引用した意味をDEDRに掲載してもらうように,手紙をかくなり,論文をかくのが筋道のようにおもうが,どうだろうか.以上,うえにあげたアンフェアーな態度はかなり本質的なものをふくんでいる.(以下略).


「DEDRにないという『客観的』指摘(をしただけだ)」という長田博士の詭弁は,譬えは悪いが「楽しい国語辞典には載っていないという客観的指摘をしただけだ」というに似る.比較は悪いが,長田氏は「日本国語大辞典」や「広辞苑」を見ずに,「楽しい国語辞典」には載っていないと強弁するがごとくである.これは「客観的指摘」であろうか.更には,日国辞・広辞苑にしか載っていない語彙を「楽しい国語辞典」に掲載してもらうように手紙を書け,でないとアンフェアーだ,というような論理で大野批判を続けるのである.



このような論理で,大野氏のその指摘をアンフェアーだ,犯罪的だ,と言いつのるのだが,長田氏が「DEDRに(載って)ない」といったのは,同氏の発言からもわかるように覆(くつがえ)し得ぬ「事実」なのである.単に長田氏がTLを見る手間が面倒だったと言えば良いだけのことではあるまいか.



そして遂には,そんなことは言っていない,と陳弁する.大野氏への攻撃は自由だが,自分への反論は絶対に許さない,というということのようである.それにしても実際,怜悧な頭脳の持ち主である同博士が,大野説に限ってはなぜこうなのか.


例えば,「kavar(DEDR1325)」を引用し,「大野はこれを『川』に対応させているが,DEDRにはそういう訳語はない」という.確かにDEDRにはない.しかしTLにはある.大野氏はすでに「日本語以前」(1987)の108ページにTLを引用してkavarと日本語のkafaについて解説を書かれている.そしてTLに載っている以下の文例を引用する.
ここで再び大野論攷へ戻る.


南二向カッテ流レル川ノ(kavarukku)東側 .
つまり,DEDRにその直接的訳語がないのはDEDRが,TLの抜粋だからである.(中略)
◆pāṭukarについて(引用者注・・・畑(はたけ)の意)


ここでは山下氏の発言の順序にしたがって大野の見解を述べることにする.
山下氏はここで単にpāṭukarという単語一つを問題とせず,大野の辞典使用
の態度の一例としてこれを取りあげ,批評を展開された.大野は「都合のよい語彙や語義だけを抽出して,それを特定の時代と結びつけるような初歩的な過ちを犯し兼ねない」とある.まず,この部分について.


ここには,区別されるべき2つのことが混同されている.山下氏は大野が 「都合のよい語彙や語義だけを抽出」するのは初歩的な過ちだとされた.
 
だが比較言語学の場合,「語彙」と「語義」とでは事柄がまったくちがう.遠くはなれて何の関係もないと思われている2つの言語に,関係があると提言するのだから,語彙の中から,「対応関係の立証に役立つ単語」を抽出するのは当然のことで,どのような単語を提出しようと,音韻と意味に対応があるならそれがとがめられる筋はまったくない.


とがめられるべき問題があるとすれば 「語義」の扱いである.単語の中心的な意味から逸脱した特殊な意味を一般化して,比較の材料とすることは,誤りになることが多い.「語義」は都合のよい所を使うだけでは不可である.それと「語彙」との区別が山下氏において気付かれていない.(中略)


◆TLの 意 味 の 配 列


[第 一](1)TLは手本としてOxfordのNEDを持ち,それを目指していた.[引用者注・・・NED (A New English Dictionary on Historical Principlesの略称)は歴史主義の立場から,時系列を追って語義解説を行なうことを目標とした.TLもそれを目指したの意].
だから語義をchronological(引用者注・・・時系列)に配列しようとしたことは当然である.問題はそれがどの程度に個々の単語について実現しているかである.山下氏のTL認識を確かめるために,まず氏のいうTLの序文を顧(かえり)みよう.
単語の意味の配列についてTLは次のように書いている.


Where chronological arrangement is possible,it is followed. Where it is not possible,alogical arrangement is followed. but this is modified by the principle of arranging the meanings in the order of comparative familiarity in usage


.(引用者訳・・・時系列的配置が可能な場合は,それに従う.それが不可能な場合は,論理的な配置に従う.しかし,それは使用する上での比較的よく使われる順で意味を配列するという根本方針にしたがって変更した).


大野の推測によれば,山下氏は辞書の編集一語一語の項目を書くだけでなく,全体として辞書を編集するという作業の経験をお持ちでないらしい.大野は 「広辞苑」(初版)のために,日本語の基礎語1000項目を選んで,上代から現代までの語義の変遷を用例と共に書いたことがある(1954年).その後「岩波古語辞典」のために2万語を扱って20年を費やした(1974年).


1995年には現代語の52000語 の辞書「角川必携国語辞典」を出版した.現在も古典語の一語一語を扱う作業をしている.


英語にはLexicographer(引用者注・・・辞書編纂者)という単語があるが,大野はほぼそれに当る仕事をして来た.山下氏との間にあるその経験の差が,TLの基本方針の文章の読み方,TLの内容の把握に相違をもたらしている.


TLの編集長は正直に書いている."Where…is possible,"「年代的に配列できるときはやります」という.「年代的に配列することができないときは,logicalな配列をします」 という.ここにある"logicalな配列"とは何だろうと辞書編集の経験者なら誰でも戸惑う.


すると,その後にも,ちゃんと逃げ口上がついている."but this is modified…"これを見て大野は思わずにやっと笑ってしまった.この人は正直な人だ.「Logicalにできないときは,その方針をやわらげ,部分的に変更して,比較的よく使われる順に並べておきます」という.


大野はしばしば経験しているが意味の発展としてはA→B→C→Dと行きそうに思われるのに,実例としてはCの例の方がBより前に現われ,BはむしろCのあとに出てくるなどのことがある.だからTLの編者もそれを知っていて(ii)の文を加えたのだろう.「原則」とは理念である.われわれは,それを現実の具体相と見なしてはな らない.


辞書がchronologicalに意味配列できるためには1.材料がそろっていなくてはならない.
2.古代から現代までの作品がどれでも読める原稿書きがいなくてはならない.
3.その人は単語の意味の展開を,心理的な変化の観点からも,文化との関連においても,文脈の実例からも把握できなくてはならない.


現在の日本では万葉集の語釈研究を公表できて,同時に源氏物語の語釈研究が公表できる学者は非常に少ない(昨年亡くなった佐伯梅友先生は両方にわたる注釈をなさった).ましてや近松・西鶴までに及べば到底いない.それだけ学問が細分化されたわけではあるが,学者の眼界(引用者注…視野)が小さくなって来たことも否めない.


インドでもSangamが精しく読める学者は極めて少ないと大野は感じている. 
材料に関していえば,TLを作った1920年代にはタミル語の作品のconcordanceが ほとんど無かった.材料はひどく不足していたのである.
それに加えて10万語を扱うTLは当然,大勢の寄り合い書きである.寄り合いで辞書を作るときには,中心によほどよく言語を把握した人がいて入念に統制しないと,でき上りにバラッキが出て,とても統一はむつかしい.(中略)


つまりchronologicalに,またいうところのlogicalに語義を記し,配列できるためには,それだけの多くの作品を読みこなした力量のある学者が多数いなくてはならない.ところがそうした学者を大勢そろえることは到底できない相談である.


タミル語の辞書でいえばWinslowの辞書は,著者の力量が感じられる辞書である.インド滞在38年に及んだというWinslowが一生を投じた迫力を大野はその辞書に感じる.TLの序文によれば,TLはWinslowの記述をまず下敷きにして作業をはじめた.用例を加えること,その他の手入れをすることは必要な仕事であっただろう.


しかし寄り合いの学者が手を加えたために,かえってWinslowよりもTLの方がわるくなったと思われる項目もある(例えばkottaiの項を読みくらべてみれば,大野のいうところは瞭然となるだろう).


語義を用例とともにchronologicalに配列することの実際的な困難さを経験している故に,大野は現在のTLの語義配列を極めて重視する山下氏の(1),(2)の発言には賛成しかねる.使用してみても,TLがそのようにできていると思われない. Kothandaraman教授もTLの語義配列の6割または7割くらいがchronologicalにできているだろうといわれたことがある.つまり,三つに一つはうまく整っていないことになる.