幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の展開 (含・正誤表)

幻冬舎版/よみがえる大野・日本語タミル語接触言語説の正誤表

大野博士の反論 その十一


大野論攷において,大野氏は次のように述べる.ただし,下記論攷は大野氏が,比較言語学でいう同系論を採っておられたときのものである.その後,クレオール言語学の軌道に入り,新・大野説を唱えられるに至った.とはいえ,大野氏が当時系統論を採られていたにせよ,音韻,語彙対応は瞠目(どうもく)すべきところがあった.


この大野論攷を大野説排斥論者は実際,徹底無視したように見受けられる.以下,長文だが,上掲大野論攷(国際日本文化研究センター学術リポジトリ.国際日本文化研究センター紀要15, 247-186.1996.http.//doi.org/10.15055/00000793)の別項を一部引用する.



(前略)今回,長田俊樹,家本太郎,児玉 望,山下博司の四氏が大野の研究 に批判を加える集会を開き,その後,大野の研究を詳細に吟味せられた上で大野の研究を評価し,新たに論評を公表せられたことに対して深甚の謝意を表明したい.それとともに,四氏が大野の見解を,依然として「撤回させたい」とお考えであるのならば,各氏の論述に対して,必ずしも同一の見解を持ち得ないところがあるので,それを個々に述べて,学界の諸先達,同学の方々の判定を仰ぎたいと考えた.


例えば比較言語学そのものについて,またドラヴィダ語と日本語の比較に必要なタミル語・日本語の古代語について,あるいは個々の単語の意味の認定について見解の異なるところがあ
る.よって大野はここにそれらについて述べてみようと思う.だが,大野はここで,ひたすら反論のための反論を繰り広げようとするものではない.(中略)   
                               
◆山下博司博士の論について・・・比較研究と古典語


山下氏が140枚に及ぶ論評を公表されて,最後に 「問題の語と語義」という欄を設け,53語を提示せられた.これまで大野の見解を批判し,あるいは拒否せられた方は少なくない.


しかし,その多くがタミル語を御存じない方だった.それはこの学問にとって不幸なことであったように思える.ところが山下氏は古典タミル語を読み,その上で大野を論評している.まずその点を歓迎したい.具体的に疑義が表明されれば,答えによって黒白が明らかになる.


実は,この批評を見る前には,次のように考えていた.あれこれと論議のある語例はすべて捨ててしまう.異論のある単語は捨ててしまっても,日本語とタミル語の同系論の論証に必要なだけの対応語は残るはずである.全部捨てられるような語彙ならば,ZvelebilやVacekやAsher,あるいはタミル人のKothandaraman,SanmugadasがTamil-Japaneseの系統関係にこれほど関心を払い,それぞれ世界に向って論文を公表するはずはない.


彼らは日本語はほとんど知らないに等しい.だがタミル語については世界に通用する学者である.その人たちは大野の研究について,誤りを指摘することはあるけれども,修正すればよいとして,全体として研究に意味を認めているのだと思われる.


大野の経験から言って,500語の単語を扱えば,その一語一語の意味について異論は当然あるものである.また,研究に問違いがないはずはない.そこで,具体的に疑わしいとされる単語,異議の提出された単語は,捨てようと思っていたのだった.


ところが,すでに述べたように長田俊樹氏の異議ある語例の6例中5例は長田俊樹氏の見落としによるものであった.また,山下氏に異議のある53例も,実際は46ページ以下に示すように,その大部分は大野が文献的証拠を持っており,あるいは説明によって理解が得られるようなものである.だから異議が提出されたからとて,その単語を全部棄てることが妥当とは思われなくなった. (以下略)


◆研究と論争の勝敗


長田俊樹氏はいう.「誤解を恐れずにいえならば,当日の議論では大野教授に軍配が上がったと認めざるを得ない.しかしながら,それはわれわれ四名が大野説を承認したことを意味しないということを強調しておきたい.大野教授に『日本語—-タミル語同系説』を撤回させることができなかったという意味において敗北したにすぎない」.(中略)
これと同じ趣旨の記述が他行にも見える.「シンポジウムは大野教授の一方的な勝利で終ったが ・・・・・」.


これによると長田俊樹氏は新しい研究を批判して共に真実に近づこうという営為を,大相撲の取組の勝ち負けのように受け取っておいでと見える.私は言語に関する新しい知識を得たときは実にうれしい.自分で見出したときはいうまでもなく,人から教えられたときでも新鮮でかつ楽しい.事実を多くそろえて,そこから推理の筋を導き出し,関係項目がみなその推理の線に収まることを見たときには,心はおのずからやわらぐ.そして一層多くの事実を集めて,その推理のたしかさを検分しなくてはと思う.(中略)


もし長田俊樹氏が,どうしても勝ちたいと思うならば,易しい方法がある.大野が挙げている言語学的な証拠,対応語なるものを一つ一つ,これはダメだと証拠をあげて正確につぶして行くことである.これは山下氏についてもいいうる.山下氏は16個の単語について実に多くの言葉を使って大野を論難し,その上で53個の実例を疑わしい単語として提示した.


しかし,そのうちの何例が実際にダメであったか.山下氏も長田俊樹氏も自分のあげた他にもまだまだ誤りがあるとしきりにいわれるが,あるなら実際に示さなくてはならない.はじめから 「自分たちは否定的でありますが」と表明したり,大野の研究を「撤回させることができなかった」とすることは無意味である.誤りの指摘に説得力があれば,大野の研究など,いつの間にか雲散霧消するに相違ない.


否定は具体的で確実でなければならない.否定が合計何個あるか.500例のうち,明らかな間違いがいくつ.否定不能(肯定せざるを得ないもの)がいくつあるのかが明示せられるべきである.そうすれば大野は否定された語について大野の持つ材料を提出して一層の理解を求めるだろう.あるいは自分の誤りが認識できれば,その例を撤回するだろう.間違いは訂正するより仕方がない.


今回長田俊樹氏は具体的に単語6個について異議の申し立てをなさった.以下に大野はそれにお答えするつもりである.それを見て第三者が公平に判定して下さるだろう.そのことは山下氏の16個と53個の指摘についてもまったく同様である.


大野の考えでは,文法形式の対応に加えて,単語の対応が最低350個あればその2つの言語の同系性に関する見込みは取り上げられ,検討に値するものとなると思う.(中略)


今回の四氏の批判を見ると四人のうち三人の方は古典タミル語を扱ったことがないとお見受けした.山下氏は氏の論文で「問題の語と語義」という一項を設けて53個 の単語を列挙している.その全部が実際に間違いであったとしても,大野の挙例の約一割にすぎない.


しかもその中にはpaṭukar(畑)がある.それは,Zvelebilが「その中でも音と意味の対応が非常に顕著なので,それを偶然と見なすことはできない」とした4個の単語の一つである.このことは山下氏の指摘が必ずしも妥当なものかどうか再考の余地があることを示唆している.(中略)


◆このやりとりによって判った事柄


少し重要と思われることがある.(3)で大野が書いたことは,当日も説明したことである.しかしお2人の文章にはそれについて何も書いてない.今回の児玉氏の文章にはあっさりと「日本語に4母音が想定されているが」と書いてある.


「④の4母音だけが古代の日本語の本来の母音だ」という見解はタミル語と出会う以前に,万葉集の何万という音節を整理して導き出した大野の見解である.それがタミル語の出現に当って,母音の対応図を作ったときに生きて来た.4母音という予想の通りで綺麗に説明がつく.そこにu~u,u~ö問題が浮き上がって来た.


それについて,長い間温めて来た大野の答えをはじめて当日説明している途中で,聴いているお2人の様子から大野は感ぜざるを得なかった.


この方々は日本語の比較言語学に必須の,古代日本語の音韻について御存じないないといっては失礼とすれば極めて少ない知識をお持ちであるなと.これでは話は分らないなと.大野の長い発言について,2人が何もお書きにならないのは,やはり,そうしたことだったと今にして思う.


以上が母音の対応についての両氏の発言に対する大野の見解である.


◆Tamil Lexiconについての認識
 
長田氏は言われる.「大野教授が引用した『タミル語大辞典』(引用者注・・・本書でいうTLを指す)についても,その意味が古いものから新しいものへと並んでいるにもかかわらず,意味をアトランダムに選んで,日本語と対応させている」.


TLの意味記述が古いものから新しいものへとすべて整理されて並んでいたら比較研究はずい分便益をうけただろう.
1981年にMaduraiで開かれた世界タミル学界でたまたま会ったアメリカの学者は,TLのReprintを希望するといいながら「それの意味記述はhistoricalでないから使いにくい」といった.それをKothan-daraman教授に話したところ,「タミル語にはまだ十分なconcordance(引用者注≒用語索引)がないし,まして1920年代には用意が不足だったのです.


TLにはSangamの単語も半分くらいしか収められていない」と元気がなかった.



大野は日本語の古典語の辞書を制作したことがあり,現在も古語辞典の編集にかかわっているので,語根の意義素を確定しようという努力は人一倍して来たし,現在もその願望を強く持っている.したがってタミル語の「大きい単語」(用例も多く,意味も広く,長い年代にわたって使われる単語)に対すると,これの根源的意味は何だろうかと自然に追求する習癖をもっている.だからTLの一つの単語につけられた10個あるいは15個の訳語を見るときには,その最も古い意味または根源的意味は何だろうかと,自然に頭を働かせる.


しかし,TLには全体として何が根源的意味なのか把握できない記述が多くある.山下氏がTLにすべて秩序ある意味記述を見出しておられるとすれば,それは奇異である(このことについては先に行って具体例をもって触れる).



TLの意味記述が十分整っていないから,大野は,単語の単純な引き合わせを避けて,タミルの古典文学に用例を求め,その文脈と日本語の用例の文脈を引き合わせて示すことに努めていた.


その作業の結果は14年にわたって「解釈と鑑賞」に連載している.シンポジウムの参加者に前以てお配りした「対応語一覧表」はいわばその記述のインデクスにすぎない.


もし一覧表の対応に不審を感じられる向きは「解釈と鑑賞」誌にその詳しい説明を求めるのが順である.しかしシンポジウムの当日も,また後日に至っても,大野説を撤回させると意気込んでも,雑誌に載せた一語一語の解釈を御覧になったらしくは見えない.


たとえばいくつかの助詞,ēとかtāṉとかumとかなどには,数十例の文例をあげ,それに対訳をつけ,いかにタミル語の古代の助詞と日本語の古代の助詞が"畏るべく"対応するかを大野はそこに記している.


その記述をするには,古代日本語の助詞について,いちいち検討を加え,その特性を見抜き,さらにそれをグループわけして,用法上の共通と差異を把握した上で大野は使っている.のみならず,相手のタミル語の古典の助詞の用例を,協力者Sanmugadas教授夫妻 とともに何十,何百と集めて研究している.そうした用意を長田俊樹氏,山下氏はどの程度持った上で発言されているだろうか.


◆両言語の相違点


「相違点について,『日本語とタミル語がそれぞれ異なった歴史を持つ以上,相違点があるのはあたりまえであって,相違点を問題にしてもはじまらないし,500の対応語こそが同系語の証拠となるのだから,そちらを問題とすべきである』と述べ,相違点はまったく問題にならないことを強調した.」とある.


上の文章の中に2重鉤括弧でくくった部分がおよそ大野の発言である.当日の批評では,……こういう相違がある,……こういう相違があると,相違点を次々にあげるばかりで,こちらが同系の材料として持ち出しているものの妥当・不妥当に触れずに,相違点があるから間違っているという発言が大部分だった.



そこで大野は述べた.比較言語学では,相当数の単語,また文法形式,それに使われる形態素(morpheme)の対応を必要とする.それが成立すれば,次第に細かいところに踏み込んでいく.そこに至ってから,相違の原因・理由をこまかく考察する.


しかし2つの言語が同系であるとは2つの言語がすべて一致するということではない.相違が多々あるのは当然で,大切な点に対応があるかどうかを見ることが肝腎である.研究は大筋を確立して,次に細かいところに進む.そうした研究の進展,手順ということがある.


フランス語とドイツ語とを比較すれば,違うところばかりといってよいかもしれない.しか
しラテン語にさかのぼり,ゴート語にさかのぼりして,対応を求めると,数々の対応が増加してくる.


それによって,これらはインド・ヨーロッパ語族の仲間であることが一層明確になる.しかし相違点をあげて行けばまた限りなくあるだろう.それと同じである.「相違点はまったく問題にならない」とあるが,それは不正確で,これは「相違点だけ取り出しても問題にならない」 ということである.まず500語の対応の存在と助詞・助動詞の対応の中のいくつを確実に否定できるのか,それは全体の何パーセントになるのかを大野としてはおたずねしたいと思っている.


◆理解と譲歩
 
「大野教授が比較的好意的に答えたのは,山下氏の指摘に対してである.大野説のなかで中心をなす,日本語の助詞と対応するとみなすタミル語の例への山下氏の疑問に答えて,たしかに大野教授のタミル語インフォーマント(引用者注…分析)もすべてに同意していないことを大野教授自身が認めたのである.シンポジウム参加者が指摘した疑問点に対する,大野教授の唯一の譲歩がこの一点であった.」とある.
 
ここで「大野教授のタミル語インフォーマントもすべてに同意していないこと」と記されているが,それはどんなことかを書いておこう.


名詞・動詞・副詞・形容詞などの意味を研究しているうちは,タミル語の先生に対して大野はもっぱら聴き役で,それをTLにたしかめるくらいのことであった.ところが助詞・助動詞にくると,次第に様子が変って来た.


ドラヴィダ語学界でなされている古典タミル語の助詞・助動詞の意味や用法についての研究は,大野の印象を率直にいえば,日本の江戸時代の本居宣長・富士谷成章以前の状態といえそうである.(中略)しかし,そこで止っている感じがある.
助詞・助動詞 については全体として日本語の側の方が研究者も多く詳細な研究が進んでいる.それには「万葉集総索引」以下100冊 にあまる古典文学の総索引が日本では揃っていて,用例の有無などすぐさま判明するといった事情も関係がある.助詞・助動詞についてはSangam全部について完備した索引はない.(中略)


言語学が言語の系統研究の自主性を保つためには,文化語を使わずに身体部位名などを使うべきだということである.つまり「言語そのもの」の研究に,「文明」を持ち込むなという.それは妥当な見解である.それだけに,長田俊樹氏のこの発言を聞く方は,大野があたかも文化語,文明語だけによって系統論を組み立てているかのようにとられるかもしれない.しかし例の500語の表には次のよ うな身体語が含まれている.(中略)


ここで次のことをいうことはできよう.長田俊樹氏は500語の一覧表をくりかえし点検して,総数はいくつ,重複はいくつ,TLからのものがいくつ,サンスクリット語と見られるものがいくつと,ことこまかに数を記しておいでになる.


それにもかかわらず「比較研究には身体部位名を使うべきだ」などと発言をなさる.すでに大野の単語一覧表の中には前掲のように数々の単語があることは御覧にならなかったのだろうか.